知るということ
2022.02.03
今回は知るということについて考えてみたいと思います。
人間は本能だけでなく、理性や論理的な思考を持ち合わせています。
お腹が空けば食べるのが生物ですが、健康を考え制限を設ける。睡魔に襲われても、やらなくてはいけないことを優先し、体調を崩してしまう。
その思考と行動は、生物としては不可解なものが多く、道徳観や法、何より幸福を求める心が影響しているのでしょう。
人のある意味での生物優位性とも言えるこれらの行動。人にとって目標とすべき幸せとは何でしょうか。収入を得れば、名声を手に入れることができれば、幸せでしょうか。いわゆる凡人の私には知る由もないですが、先日とある経営者の方と話したところそうではないのではないかとおっしゃっておりました。
その方曰く、幸せとは幸せに気がつける、幸せだと思える心だということでした。
今、目の前で起こること、心の中に湧き上がる感情、それらの良し悪しは個人的な感想であって、起きた時点で悪いと決定づけられていることは存在しないのだとか。
確かにと頷くことができます。
暑い日が続いていますが、現場にいる作業員たちの表情は様々です。
「あちぃなー」「今日はビールが美味いぞ-」
と笑顔で話す者もいれば、汗を拭い早く帰りたいと目を落とす者もいます。
子供が水をこぼしてしまった。親は怒り、すぐさま掃除を始めます。子供はお構いなしにそれをバシャバシャと踏みつけて笑っています。
一見屁理屈に見えるようなこれらの考えは、全てのことに言えるかもしれません。
人間は幸福を求めて理性や論理的な思考と行動をするのにも関わらず、幸福を決めるのは心なのです。なんだか辻褄が合わないような禅問答のようなことになってきました。
しかしながら、すべてのことを受け入れ、すべてのことを幸せだと思える心など超越した聖人にしか持ちようがない気がしてきます。
では何ができるか。まずは自分がどのような状態を幸せだと思うことができるかを知ることだと思います。鮮明に詳細にそのことについて知っていく。
例えば、今日の夕飯は何を食べられたら幸せなのか。何時に食べられると良いのか。誰と食べたいのか。こんな自問自答をなるべく多くのことについてやってみるのです。
私も3日間ほどできるだけ詳細にそれらを考察し、なるべく実践するということを繰り返しました。面倒くさがりな私は、3日経つ頃には殆どのことがどうでも良くなってしまいました。食事はあれやこれやと考えるよりも食べられたら良い。睡眠時間はできれば5時間以上とりたいな、今日着る服は選択されているものなら何でも良い。
こうすると幸せを探し考えているうちに、気がつけばこれも幸せだと思おう、実はこれで幸せだったのだと思うようになりました。
情報が周りに溢れ、無意識に他人の思考や行動を吸収してしまいがちな昨今。おかげで幸福の定義についてもよく分からなくなってしまいがちです。自分の住んでいる地域のこともよく知らず、世界を見て回りたくなり、母の味に感謝もせず外食を求める。自分の容量を越えて手にした情報は古いデータを消去し、上書き保存されてしまいます。知りたい知りたいと手を伸ばした情報は、自分のアイデンティティを薄めていっているかもしれません。
まずは自分と向き合い、手の届く周りをよく知る。少しずつその範囲を広げていくことも必要でしょう。しかし自分自身を見失わぬように。
幸福を得たいと考えているのは他でもない自分なのですから。
とはいえ、まだ見ぬ人やものとの出会いはより自分をするきっかけにもなり得ます。この記事が書けたのも、貴重な時間を頂戴して会うことのできた方のお話のおかげです。弊社にあっても、現在お引き立て頂いているお客様や従業員をしっかりと見つめ、貢献していけるように努力をする中で、新しい出会いも大切に、ありがたい、幸せだと受け止めていきたいと存じます。
禅問答は続きます。この記事が大変にわかりにくいものになってしまったことも読み返してみて感じましたが、校閲せずに残すことにしました。
なにしろ、是非も善悪も、そして幸福も受け止める心次第ですので。